試合結果 DeNA 1 - 5 中日 勝:橋本 敗:宮城
本日試合なし

背番号「8」の系譜

背番号の系譜

背番号「8」は、中日ドラゴンズにおいて「打つ番号」として受け継がれてきた。球団が誕生した1936年から現在まで、この番号を託されたのは18人。その中には、背番号「8」を長く背負ったことから「エイトマン」と呼ばれ、史上初めてセ・パ両リーグで首位打者となった不世出の強打者・江藤慎一がいる。原田督三から江藤へと11年着用が2代続き、星野仙一が「末広がり」の縁起を託した“韓国のイチロー”李鍾範が着け、いまは球団最長・16年目の大島洋平がこの番号で2000安打を積み上げている。本記事では、歴代18人の在籍期間・通算成績・獲得タイトルを、NPB公式記録をもとにひとりずつ辿っていく。

中日ドラゴンズ 歴代背番号「8」 一覧

選手名背番号「8」の期間ポジションひとこと
1浅原直人1年(1936)内野手・外野手初代背番号「8」
2小阪三郎1年(1937)内野手戦前の名古屋軍
3村瀬一三4年(1938〜1941)内野手俊足の内野手
4三村 勲2年(1946〜1947)内野手のちに水爆打線の一角
5原田督三11年(1948〜1958)外野手中日初のサイクル安打
6江藤慎一11年(1959〜1969)捕手・内野手・外野手「エイトマン」/両リーグ首位打者/殿堂入り
7川畑和人1年(1970)投手江藤との交換トレードで加入
8島谷金二6年(1971〜1976)内野手1974年優勝の胴上げ捕球
9森本 潔3年(1977〜1979)内野手島谷との大型トレードで加入
10田野倉利行4年(1981〜1984)内野手登録名4つの内野手
11大石友好7年(1985〜1991)捕手西武黄金期からの移籍
12彦野利勝6年(1992〜1997)外野手幻のサヨナラ本塁打
13李 鍾範2年(1998〜1999)内野手“韓国のイチロー”
14森野将彦5年(1999〜2001・2004〜2005)内野手2期にわたり着用
15波留敏夫2年(2001〜2002)外野手・内野手「ハマの核弾頭」
16森岡良介1年(2003)内野手ドラ1ルーキーの番号
17平田良介5年(2006〜2010)外野手のちにサイクル安打・GG賞
18大島洋平16年目(2011〜現在)外野手歴代最長/2000安打/現在の背番号「8」

戦前〜戦後初期の系譜

浅原直人【初代背番号「8」】

1916年4月8日生(-1987年2月1日)/ドラフト制度前(1936年入団)

右投右打/内野手・外野手/プロ通算11年

背番号「8」の期間:1年(1936)

通算成績

試合安打打率本塁打打点盗塁
673493.2284429381

※1936〜1955年のプロ通算成績(名古屋・大東京・東急・東映など全所属球団の合計)。

記念すべき初代の背番号「8」は、愛知一中出身の浅原直人。球団創設初年度の1936年に名古屋軍でこの番号を着けたが、同年秋のシーズン途中に大東京軍へ移籍している。応召を挟んで戦後も現役を続け、1952年に35歳で東急へ復帰すると、4月20日の近鉄戦でプロ野球5人目のサイクル安打を達成した。名古屋軍で最初に「8」を背負った選手として、系譜の出発点に名を刻んでいる。

小阪三郎【戦前の名古屋軍】

1915年11月16日生/ドラフト制度前(1936年入団)

右投右打/内野手/プロ通算約4年

背番号「8」の期間:1年(1937)

通算成績

試合安打打率本塁打打点盗塁
8933.1451129

※1936〜1937年および1944年のNPB通算成績。

浅原に続いて背番号「8」を引き継いだ内野手。宇治山田商から明治大を経て入団し、1937年にこの番号を着けた。その後いったん球界を離れたが、1944年には名古屋軍が改称した産業軍で再びプレーしている。戦前の名古屋軍を支えた選手のひとりだった。

村瀬一三【俊足の内野手】

1918年11月7日生/ドラフト制度前(1938年入団)

右投右打/内野手/プロ通算約4年

背番号「8」の期間:4年(1938〜1941)

通算成績

試合安打打率本塁打打点盗塁
301194.19077561

※1938〜1941年のNPB通算成績。1941年途中に阪神へ移籍。

享栄商出身の内野手で、1938年春から4年間、背番号「8」を着けた。1939年に28盗塁、1940年に22盗塁を記録するなど、足を武器にした選手だった。1941年のシーズン途中に阪神へ移籍し、名古屋を去っている。奇しくも母校の享栄は、のちに現在の背番号「8」である大島洋平を送り出すことになる。

三村 勲【のちに水爆打線の一角】

1924年3月8日生(-2010年3月17日)/ドラフト制度前(1946年入団)

右投右打/内野手/プロ通算10年

背番号「8」の期間:2年(1946〜1947)

通算成績

試合安打打率本塁打打点盗塁
901712.2376130652

※1946〜1955年のプロ通算成績(中日以降の全所属球団の合計)。1955年の登録名は「三村勇夫」。

飯塚商から専修大、八幡製鉄を経て入団した内野手。戦後間もない1946年から2年間、中部日本(現・中日)で背番号「8」を着けた。1947年オフには赤嶺昌志を慕う金山次郎・小鶴誠らと共に中日を退団して急映へ移り、1950年には松竹ロビンスで金山・小鶴とともに「水爆打線」の一角を担い、セ・リーグ初代優勝に貢献している。移籍を重ねながら10年にわたって現役を続けた、時代を象徴する選手だった。

原田督三【中日初のサイクル安打】

1919年8月28日生(-1976年3月30日)/ドラフト制度前(1948年入団)

左投左打/外野手/プロ通算11年

背番号「8」の期間:11年(1948〜1958)

通算成績

試合安打打率本塁打打点盗塁
12341212.26964485203

※1948〜1958年のNPB通算成績(すべて中日)。1948〜1955年は「原田徳光」の登録名でプレー。

背番号「8」を初めて長期にわたって背負ったのが、この原田督三だ。中京商時代に野口二郎らと1937年夏・1938年春の甲子園で優勝し、明治大・東洋産業を経て1948年に中日へ入団。主力が引き抜かれた「赤嶺旋風」の直後というチーム事情もあり、1年目から中心選手として活躍した。1950年にはリーグ最多の12三塁打を記録。そして1953年8月17日の巨人戦(後楽園)では、史上9人目、中日の選手としては初のサイクル安打を達成した。ただしこの試合は10対12で敗れ、サイクル安打の達成者が試合で敗れた初の例ともなっている。1954年には2番・右翼の定位置でチーム初の日本一に貢献。11年にわたって「8」を背負い続けた、系譜前半の主役だった。

「エイトマン」江藤慎一の時代

江藤慎一【「エイトマン」/両リーグ首位打者/殿堂入り】

1937年10月6日生(-2008年2月28日)/ドラフト制度前(1959年入団)

右投右打/捕手・内野手・外野手/プロ通算18年

背番号「8」の期間:11年(1959〜1969)

通算成績

試合安打打率本塁打打点盗塁
20842057.287367118978

※1959〜1976年のプロ通算成績(中日以降の全所属球団の合計)。

主なタイトル・表彰:首位打者3回(1964・1965・1971年)/最高出塁率1回(1971年)/ベストナイン6回(1961・1963〜1966・1968年)

※以下は主なタイトルに含めない
・オールスターゲームMVP2回(1965年・1968年)(タイトルではない表彰)

原田から背番号「8」を受け継ぎ、この番号を球団史に刻んだのが江藤慎一だ。背番号「8」を長く背負ったことから「エイトマン」と呼ばれ、闘志あふれるプレースタイルから「闘将」の異名も取った。熊本商から日鉄二瀬を経て1959年に入団。日鉄二瀬時代の恩師・濃人渉(のちに中日監督としてこのシリーズの背番号1を着用)に見出された苦労人だった。1964・1965年には王貞治の三冠王を阻止して2年連続の首位打者を獲得。ON砲が揃って現役だった16年間のセ・リーグで、2年連続の打撃タイトルを獲ったON以外の選手は江藤だけである。1969年に水原茂監督の構想外となり、ファンの署名運動もむなしく「中日の江藤で終わりたい」とトレードを拒んで任意引退に追い込まれたが、翌1970年に恩師・濃人が監督を務めるロッテへ移り現役に復帰。1971年にはパ・リーグでも首位打者に輝き、史上初のセ・パ両リーグ首位打者となった。この記録は2011年に内川聖一が並ぶまで、40年間ただ一人のものだった。2010年に野球殿堂入り。中日を去った後、大洋でも再び背番号「8」を背負っている。

川畑和人【江藤との交換トレードで加入】

1948年4月12日生/1966年一次ドラフト2位(東京オリオンズ)

右投右打/投手/プロ通算9年

背番号「8」の期間:1年(1970)

通算成績

〈投手成績〉
登板勝利敗北防御率奪三振セーブ
899103.901360
〈打撃成績〉
試合安打打率本塁打打点盗塁
953.097000

※1968〜1977年のプロ通算成績(中日以降の全所属球団の合計)。

歴代18人でただ一人、背番号「8」を着けた投手が川畑和人だ。中日への加入経緯そのものが、前任者・江藤と直結している。1970年6月、任意引退していた江藤をロッテが引き取る交換トレードが成立し、その見返りとして中日へ来たのが川畑だった。つまり、背番号「8」を明け渡した江藤の“交換相手”が、そのままこの番号を継いだことになる。鹿児島実のエース・四番から東京オリオンズに入団し、この1970年は移籍後の終盤に先発陣へ加わって初完投勝利を挙げた。同じ年にロッテと中日の2球団で勝利を記録したのは史上4人目である。翌1971年も中日に在籍し、背番号「8」こそ手放したもののチームを去ったわけではない。引退後は打撃投手やスカウトを経て、西宮市議会議員を4期務めた。

島谷金二【1974年優勝の胴上げ捕球】

1945年1月23日生/1968年ドラフト9位

右投右打/内野手/プロ通算14年

背番号「8」の期間:6年(1971〜1976)

通算成績

試合安打打率本塁打打点盗塁
16821514.26922978172

※1969〜1982年のプロ通算成績(中日以降の全所属球団の合計)。

主なタイトル・表彰:ベストナイン2回(1978・1979年)/ゴールデングラブ賞4回(1975・1977〜1979年)

川畑の後を継ぎ、中日のホットコーナーを支えたのが島谷金二だ。高松商から四国電力を経て、3度の入団拒否の末に1968年ドラフトで中日入りした苦労人でもある。1971年から背番号「8」を着け、20本塁打前後を安定して放つ長距離砲として活躍した。1974年、中日が20年ぶりのリーグ優勝を決めた瞬間、山下大輔のサードライナーを捕球して胴上げ投手ならぬ“胴上げ捕球”の主役となったのが島谷である。守備でも定評があり、1975年には三塁手として当時のダイヤモンドグラブ賞(現ゴールデングラブ賞)を受賞した。1987年に星野仙一の監督就任と共に中日へ復帰し、コーチ・スカウトとしても長く球団に貢献している。

森本 潔【島谷との大型トレードで加入】

1942年4月13日生/1965年入団(阪急)

右投右打/内野手/プロ通算15年

背番号「8」の期間:3年(1977〜1979)

通算成績

試合安打打率本塁打打点盗塁
14501122.24814657263

※1965〜1979年のプロ通算成績(阪急・中日の合計)。

島谷から背番号「8」を受け継いだ森本潔もまた、その加入経緯が前任者と直結している。1976年オフ、中日と阪急のあいだで3対4の大型トレードが成立し、島谷が阪急へ移る一方、森本は中日へやってきた。江藤から川畑への継承に続き、背番号「8」がトレードで手渡された2度目のケースである。西条高から立教大へ進み、立大では土井正三から遊撃のポジションを奪った実力者。阪急では日本人選手として初めてサングラスとリストバンドを着用した“ファッションリーダー”としても知られ、1976年の巨人との日本シリーズ最終第7戦では、トレードが決まっていた中で決勝の逆転2ランを放ち、阪急を初の日本一に導いた。その直後、入れ替わるように中日へ移り、背番号「8」を3年間着けた。

昭和末〜平成の系譜

田野倉利行【登録名4つの内野手】

1954年4月3日生/1972年ドラフト4位

右投右打/内野手/プロ通算16年

背番号「8」の期間:4年(1981〜1984)

通算成績

試合安打打率本塁打打点盗塁
746317.2375015210

※1973〜1988年のプロ通算成績(中日・ロッテの合計)。NPB公式の登録名は「田野倉利行」。

早稲田実出身の内野手で、改名が非常に多かったことで知られる。「利男」「正樹」「利長」「利行」と、生涯で4つの登録名を名乗り(2番目以降はいずれも読みが「としお」)、背番号「8」を着けた4年間だけでも「正樹」から「利長」へと登録名が変わっている。1980年に高木守道と二塁を併用し、1981年に高木の引退でレギュラーを獲得。規定打席には届かないものながら打率.278・14本塁打を放った。「金魚」の愛称で親しまれ、七番・宇野勝と八番・田野倉で「うのきんコンビ」と呼ばれたこともある。なお、中日が1978年と1979年に2年続けて1イニング三者連続三球三振を喫した際、その両方で三振に倒れた打者でもあり、一人で二度この記録に関係したのは、2026年に細川成也が並ぶまで田野倉ただ一人だった。

大石友好【西武黄金期からの移籍】

1954年1月15日生/1979年ドラフト3位(西武)

右投右打/捕手/プロ通算12年

背番号「8」の期間:7年(1985〜1991)

通算成績

試合安打打率本塁打打点盗塁
683256.2061211111

※1980〜1991年のプロ通算成績(西武・中日の合計)。

歴代18人で唯一、背番号「8」を着けた捕手が大石友好だ。神奈川大から河合楽器を経て西武に入団し、1982・1983年の日本一を経験した黄金期の在籍選手。1985年に中日へ移り、7年間にわたって背番号「8」を着けた。派手な打撃成績こそ残していないが、投手陣を支える控え捕手として長くチームに在籍した実力者だった。

彦野利勝【幻のサヨナラ本塁打】

1964年10月12日生/1982年ドラフト5位

右投右打/外野手/プロ通算16年

背番号「8」の期間:6年(1992〜1997)

通算成績

試合安打打率本塁打打点盗塁
965669.2648534030

※1985〜1998年のNPB通算成績(すべて中日)。

主なタイトル・表彰:ベストナイン1回(1989年)/ゴールデングラブ賞3回(1988〜1990年)

※以下は主なタイトルに含めない
・オールスターゲームMVP1回(1989年)(タイトルではない表彰)

愛知高出身で中日一筋を貫いた外野手。強肩を武器に1988年から3年連続でゴールデングラブ賞を受賞し、1989年にはベストナインにも選ばれた。その彦野の名を球史に残したのが、1991年6月18日のナゴヤ球場での出来事だ。横浜大洋戦の延長10回裏、盛田幸妃からサヨナラ本塁打を放ちながら、一塁ベースを回る手前で右膝を痛めて走れなくなり、代走の山口幸司がホームインした。本塁打を打った選手に代走が送られたのは1969年の近鉄・ジムタイル以来2人目だが、サヨナラ本塁打での代走は史上初の珍事だった。検査の結果は右膝靭帯断裂で、長期離脱を余儀なくされている。彦野が背番号「8」を継いだのは、この靭帯断裂の翌年の1992年からだった。

李 鍾範【“韓国のイチロー”】

1970年8月15日生/韓国・ヘテから移籍(1998年入団)

右投右打/内野手・外野手/NPB通算4年

背番号「8」の期間:2年(1998〜1999)

通算成績

区分試合安打打率本塁打打点盗塁
KBO17061797.297194730510
NPB311286.261279953

※KBOは韓国プロ野球19年間の通算、NPBは1998〜2001年の中日での通算。

“韓国のイチロー”と呼ばれた大スターで、韓国プロ野球ではMVP・首位打者・盗塁王4回・ゴールデングラブ賞6回などを獲得し、通算510盗塁は歴代2位を誇る。韓国球界から保有権そのものがNPB球団へ移った初の事例として、1998年に移籍金4億5000万円で中日入りした。このとき星野仙一監督は「縁起の良い末広がり」という意味から背番号「8」を希望し、当時この番号を着けていた彦野利勝を入団時と同じ57番に戻したうえで、李に背番号「8」を着けさせている。李は1998年に打率.283・18盗塁と活躍したが、翌1999年7月、自らの希望で森野将彦の背番号7と交換し、星野が用意した「末広がり」の背番号「8」をわずか1年半で手放した。1999年のリーグ優勝に貢献した後、2001年に退団。中日在籍中の1998年に名古屋市内で誕生した息子・李政厚は、のちにメジャーリーガーとなっている。

森野将彦【2期にわたり着用】

1978年7月28日生/1996年ドラフト2位

右投左打/内野手/プロ通算21年

背番号「8」の期間:5年(1999〜2001・2004〜2005)

通算成績

試合安打打率本塁打打点盗塁
18011581.27716578218

※1997〜2017年のNPB通算成績(すべて中日)。

主なタイトル・表彰:ベストナイン1回(2010年)/ゴールデングラブ賞1回(2014年)

※以下は主なタイトルに含めない
・月間MVP1回(2011年7月)(月間の表彰)
・日本シリーズ優秀選手賞1回(2007年)(日本シリーズの表彰)
・オールスターゲーム優秀選手賞1回(2007年)(オールスター戦の表彰)

歴代18人でただ一人、背番号「8」を2度着けたのが森野将彦だ。東海大相模から入団し、星野仙一監督の意向で高卒2位ながら背番号7を与えられたが、1999年7月に李鍾範の希望で「7」と「8」を交換して背番号「8」へ。2001年途中にトレード加入した波留敏夫へこの番号を譲って一度離れたものの、2004年に落合博満監督が「16は投手がつける番号」との考えから森野を背番号「8」へ戻した(このとき森岡良介を45へ動かしている)。2006年、ドラフト1位の平田良介に背番号「8」を着けさせる球団方針で背番号31へ移った。森野を代表する2010年の179安打・打率.327や2009年の109打点は、いずれも背番号「8」を手放した後の記録である。長い下積みを経て、2014年に自ら望んで背番号7へ戻った年、プロ18年目で初めてゴールデングラブ賞を受賞した。これは当時、史上最も遅い初受賞だった。

波留敏夫【「ハマの核弾頭」】

1970年5月25日生/1993年ドラフト2位(横浜)

右投右打/外野手・内野手/プロ通算11年

背番号「8」の期間:2年(2001〜2002)

通算成績

試合安打打率本塁打打点盗塁
913872.2784426676

※1994〜2004年のプロ通算成績(横浜・中日・ロッテの合計)。

横浜の上位打線で闘志あふれるプレーを見せ、「ハマの核弾頭」「突貫小僧」と呼ばれた外野手。大谷高から熊谷組を経て横浜に入団し、1999年には169安打・95得点を記録している。2001年シーズン途中にトレードで中日へ加入し、森野から背番号「8」を受け継いだ。奇しくも初代の背番号「8」・浅原直人も戦後に熊谷組でプレーしており、65年の時を隔てて同じ社会人チーム出身の選手が背番号「8」に袖を通したことになる。

森岡良介【ドラ1ルーキーの番号】

1984年7月15日生/2002年ドラフト1巡目

右投左打/内野手/プロ通算14年

背番号「8」の期間:1年(2003)

通算成績

試合安打打率本塁打打点盗塁
557290.2417974

※2003〜2016年のプロ通算成績(中日・ヤクルトの合計)。

明徳義塾からドラフト1巡目で入団した内野手。入団1年目の2003年にいきなり背番号「8」を与えられたが、この年の一軍出場は3試合にとどまった。翌2004年、落合博満監督の就任にともなって森野将彦が背番号「8」へ戻る際、背番号45へ変更している。背番号「8」を手放した後も2008年まで中日に在籍し、2009年からはヤクルトへ移った。2016年には古巣・中日とのオープン戦で、前年に引退した山本昌の引退登板の最後の打者を務めている。

平田良介【のちにサイクル安打・GG賞】

1988年3月23日生/2005年高校生ドラフト1巡目

右投右打/外野手/プロ通算17年

背番号「8」の期間:5年(2006〜2010)

通算成績

試合安打打率本塁打打点盗塁
12271046.26810548441

※2006〜2022年のNPB通算成績(すべて中日)。

主なタイトル・表彰:ベストナイン1回(2015年)/ゴールデングラブ賞1回(2018年)

大阪桐蔭からドラフト1位で入団し、球団が森野を31番へ動かしてまで背番号「8」を託した期待の外野手。ただし背番号「8」を着けた2006〜2010年の5年間は合わせて112試合の出場にとどまり、本格的にブレイクしたのは背番号6に変わった2011年以降だった。2015年にベストナイン、2018年には打率.329・162安打を放ってゴールデングラブ賞を受賞し、同年8月16日にはサイクル安打も達成している。背番号「8」を手放してから花開いた点は、前任の森野将彦とよく似た歩みだった。

現在の背番号「8」

大島洋平【歴代最長/2000安打/現在の背番号「8」】

1985年11月9日生/2009年ドラフト5位

左投左打/外野手/2010年〜現役(17年目)

背番号「8」の期間:16年目(2011〜現在)

通算成績

試合安打打率本塁打打点盗塁
19452067.28834404271

※2010〜2025年のNPB通算成績(すべて中日)。2025年シーズン終了時点の数値で、記録は更新中。

主なタイトル・表彰:最多安打2回(2019・2020年)/盗塁王1回(2012年)/ベストナイン1回(2012年)/ゴールデングラブ賞9回(2011・2012・2014〜2016・2018〜2021年)

※以下は主なタイトルに含めない
・月間MVP1回(2017年)(月間の表彰)
・日本シリーズ優秀選手賞1回(2010年)(日本シリーズの表彰)

現在の背番号「8」を背負う大島洋平は、この番号を16年目まで着け続けており、原田督三・江藤慎一の11年を上回る歴代最長着用者である。享栄高・駒沢大・日本生命を経てドラフト5位で入団し、2010年の新人年こそ背番号32だったが、2011年からは一貫して背番号「8」を背負ってきた。俊足堅守の外野手として、盗塁王1回、最多安打2回、そして外野手として歴代5位タイのゴールデングラブ賞9回を獲得。2023年8月26日にはNPB史上55人目の通算2000安打を達成し、実働14年目での到達は張本勲と並ぶプロ野球最速タイ記録だった。名古屋市緑区に生まれ、憧れの立浪和義のように長く現役を続けることを目標に掲げた地元出身のヒットメーカーが、いまも背番号「8」の系譜を書き継いでいる。

背番号「8」 歴代選手の通算成績合計

打撃成績(18人合計)

項目全18選手の合計
試合数17,657
安打14,724
打率.265
本塁打1,448
打点6,448
盗塁1,133

※各選手のプロ通算(中日以外の所属球団もすべて含む合計)。李鍾範はNPB(中日)での成績のみを算入し、KBOの記録は含めない。現役の大島洋平は2025年シーズン終了時点の数値で記録更新中。打率は単純平均ではなく「総安打÷総打数」で算出。

投手成績(背番号「8」の投手陣合計)

項目投手陣の合計
登板89
勝利9
敗北10
セーブ0
奪三振136
投球回221.2
防御率3.90

※背番号「8」を着けた唯一の投手・川畑和人の通算成績。防御率は通算自責点96×9÷通算投球回221回2/3で算出。

背番号「8」を着けた打者たちの通算安打を足し合わせると、実に1万4000本を超える。「打つ番号」の系譜にふさわしい重みだ。中でも安打数では、現役の大島洋平(2067本)が「エイトマン」江藤慎一(2057本)をわずか10本上回り、歴代トップに立っている。

まとめ

初代の浅原直人から現在の大島洋平まで、中日ドラゴンズの背番号「8」を背負ったのは18人。原田督三と江藤慎一が11年ずつ着け続け、その江藤は「エイトマン」と呼ばれて史上初の両リーグ首位打者に輝いた。江藤との交換トレードで川畑和人が、島谷金二との大型トレードで森本潔が背番号「8」を継ぎ、星野仙一が「末広がり」の縁起を託した李鍾範から森野将彦へと番号が渡っていく——背番号「8」の歴史は、そのままトレードと番号交換のドラマでもある。

そしていま、その番号を背負うのは球団最長・16年目の大島洋平。2000安打を刻み、安打数では歴代トップに立った現役最長のこの背番号が、これからどこまで記録を伸ばしていくのか。「打つ番号」の系譜は、まだ書き継がれている。

コメント

タイトルとURLをコピーしました