背番号「10」は、中日ドラゴンズの歴史のなかでも特別な意味を持つ番号だ。球団が誕生した1936年から現在まで、この番号を背負った選手はわずか3人しかいない。理由ははっきりしている——3人目の服部受弘があまりに長く、あまりに大きな足跡を残し、その引退とともに「10」が中日で永久欠番になったからだ。西沢道夫の「15」と並ぶ、中日にたった2つしかない永久欠番。本記事では、初代の岩田次男から永久欠番の服部受弘まで、歴代3人の在籍期間・通算成績・獲得タイトルを、NPB公式記録をもとにひとりずつ辿っていく。
中日ドラゴンズ 歴代背番号「10」 一覧
| 代 | 選手名 | 背番号「10」の期間 | ポジション | ひとこと |
|---|---|---|---|---|
| 1 | 岩田次男 | 1年(1936) | 内野手 | プロ野球初の満塁本塁打 |
| 2 | 鈴木秀雄 | 2年(1937〜1938) | 捕手 | 「7」も着けた戦前の捕手 |
| 3 | 服部受弘 | 17年(1939〜1958、1977) | 投手・捕手 | 本塁打王&通算112勝の永久欠番 |
名古屋軍・黎明期の背番号「10」(1936〜1938)
岩田次男【プロ野球初の満塁本塁打】
1915年11月6日生/ドラフト制度前(1936年入団)
右投右打/内野手/プロ通算4年
背番号「10」の期間:1年(1936)
通算成績
| 試合 | 安打 | 打率 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 |
|---|---|---|---|---|---|
| 241 | 159 | .204 | 5 | 59 | 23 |
※1936年に名古屋軍でプレー後、東京セネタース・朝日軍でも出場。上記は通算成績。
名古屋市立第三商業から早稲田大学(中退)を経て、球団創設初年度の1936年に名古屋軍へ入団した内野手。初代の背番号「10」を着けた選手である。その名を球史に残したのが1936年9月23日、甲子園球場での名古屋金鯱軍戦。内藤幸三から放った一発は、プロ野球史上初の満塁本塁打として記録された。1937年途中に東京セネタースへ移り、1941年からは朝日軍でプレー。1942年を最後に兵役のため現役を退き、戦後はプロ野球には戻らず、社会人野球の東邦ガスで選手兼任監督を務めた。
鈴木秀雄【「7」も着けた戦前の捕手】
1918年10月9日生/ドラフト制度前(1936年入団)
右投両打/捕手・内野手/プロ通算9年
背番号「10」の期間:2年(1937〜1938)
通算成績
| 試合 | 安打 | 打率 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 |
|---|---|---|---|---|---|
| 393 | 193 | .181 | 6 | 74 | 60 |
※名古屋・ライオン・大和・産業・中部日本での通算。
静岡・榛原中から全静岡を経て、岩田と同じ1936年に名古屋軍へ入団した捕手。入団初年度は初代の背番号「7」を着け、翌1937年から2年間「10」を背負った。1939年途中にライオン軍へ移籍すると、その後は大和軍などを渡り歩き、1944年に名古屋軍の後身である産業軍へ復帰して内野手に転向。1946年に現役を退いた。打撃で目立つタイプではなかったが、球団創設期のバックアップを担った一人である。
永久欠番へ ― 服部受弘の時代(1939〜1958)
服部受弘【本塁打王&通算112勝の永久欠番】
1920年1月23日生/ドラフト制度前(1939年入団)
右投右打/投手・捕手/プロ通算20年(1939〜1958)
背番号「10」の期間:17年(1939〜1941・1946〜1958の選手時代、および1977年の二軍監督時代。1942〜1945年は応召などで着用なし)
通算成績
| 〈打撃成績〉 | |||||
|---|---|---|---|---|---|
| 試合 | 安打 | 打率 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 |
| 852 | 447 | .239 | 33 | 208 | 61 |
| 〈投手成績〉 | |||||
|---|---|---|---|---|---|
| 登板 | 勝利 | 敗北 | 防御率 | 奪三振 | セーブ |
| 259 | 112 | 65 | 2.81 | 540 | 0 |
主なタイトル:本塁打王1回(1941年)
背番号「10」の系譜、いや中日ドラゴンズの草創期そのものを語るうえで欠かせないのが服部受弘だ。愛知・岡崎中から日本大学を経て、1939年に名古屋軍へ捕手として入団。3年目の1941年には8本塁打で単独の本塁打王に輝いた。用具の質が悪く打球が飛ばない時代に、球団全体で13本しかない本塁打の過半を一人で叩き出した“強打の捕手”だった。しかし1942年から応召し、戦争が野球人生の真ん中を断ち切った。
1946年に古巣へ復帰すると、竹内愛一監督のもとで投手に転向。初登板初勝利からいきなり14勝を挙げ、この年から5年連続で二桁勝利を記録した。1949年は孤軍奮闘の24勝、1950年にはエース・杉下茂に次ぐ21勝。登板しない日は捕手や内野手として打線にも入る文字どおりの“多刀流”で、指先で切る変化球を武器に打者のタイミングを外した。1952年8月2日の巨人戦では別所毅彦から球団初の代打逆転満塁本塁打を放ち、その直後にリリーフ登板してそのまま勝利投手になるという離れ業まで演じている。
1954年には球団初のリーグ制覇・初の日本一に主将として貢献。投げては通算112勝、打っては通算33本塁打・447安打という、球史でも稀有なキャリアを築いた。1958年に西沢道夫とともに現役を退くと、背番号「10」は西沢の「15」とともに永久欠番に指定された。中日の永久欠番はこの2つだけである。1977年には二軍監督として再び「10」に袖を通し、1991年に71歳で世を去った。
歴代背番号「10」 全員の通算成績(フルキャリア合計)
歴代3人の通算成績を、それぞれの“フルキャリア”でまるごと合算してみた(移籍先の球団もすべて含む)。打者としての打撃成績と、投手を兼ねた服部の投手成績に分けて掲載する。
打撃成績(3人合計)
| 項目 | 全3選手の合計 |
|---|---|
| 試合数 | 1,486 |
| 安打 | 799 |
| 打率 | .215 |
| 本塁打 | 44 |
| 打点 | 341 |
| 盗塁 | 144 |
※各人のプロ通算(中日以外の所属球団もすべて含む合計)。打率は単純平均ではなく「総安打÷総打数」で算出。
投手成績(背番号「10」の投手陣合計)
| 項目 | 投手陣の合計 |
|---|---|
| 登板 | 259 |
| 勝利 | 112 |
| 敗北 | 65 |
| セーブ | 0 |
| 奪三振 | 540 |
| 投球回 | 1,576.1 |
| 防御率 | 2.81 |
※投手として登板したのは服部受弘のみ(岩田・鈴木は野手)。防御率は通算自責点492×9÷通算投球回1,576.1回で算出。
まとめ
中日ドラゴンズの背番号「10」を背負ったのは、初代・岩田次男、二代・鈴木秀雄、そして三代・服部受弘のわずか3人。前の2人が球団創設期を支えた戦前の選手で、最後の服部が“多刀流”として本塁打王と通算112勝を両立させ、その功績によって「10」は永久欠番となった。以後この番号を着けた選手はいない。
投げて112勝、打って本塁打王——一人の選手がこれほどのスケールで一つの番号を体現した例は、球史でもそう多くない。西沢道夫の「15」と並ぶ中日でただ2つの永久欠番として、背番号「10」はこれからも空き番のまま、服部受弘の名とともに受け継がれていく。


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