背番号「13」と聞いて、中日ファンの多くが真っ先に思い浮かべるのは、20年間この番号を背負い続けた鉄腕・岩瀬仁紀だろう。だが、球団の前身である中部日本時代の1946年から現在まで、この番号を託されたのは17人。そのほとんどが投手で、デビュー戦でノーヒットノーランを演じた左腕あり、29勝で沢村賞に輝いたアンダースローあり、そして通算407セーブ・1002登板という前人未到の日本記録を打ち立てた守護神ありと、投手王国・ドラゴンズの歴史を映す“投手たちの番号”となっている。本記事では、歴代17人の在籍期間・通算成績・獲得タイトルを、NPB公式記録をもとにひとりずつ辿っていく。
中日ドラゴンズ 歴代背番号「13」 一覧
| 代 | 選手名 | 背番号「13」の期間 | ポジション | ひとこと |
|---|---|---|---|---|
| 1 | 林 直明 | 1年(1946) | 投手 | 初代背番号「13」 |
| 2 | 竹本 卓 | 2年(1950〜1951) | 内野手 | 明大出身、1試合だけ登板も |
| 3 | 小沢重光 | 1年(1954) | 内野手 | 岡崎高出身の内野手 |
| 4 | 小川滋夫 | 2年(1955〜1956) | 内野手 | 松山商出身の内野手 |
| 5 | 加藤力雄 | 4年(1960〜1963) | 投手 | 中京大出身の右腕 |
| 6 | 佐野卓郎 | 1年(1964) | 内野手 | 享栄商出身の内野手 |
| 7 | 小川健太郎 | 6年(1965〜1970) | 投手 | 1967年29勝・沢村賞のアンダースロー |
| 8 | 井上幸信 | 1年(1971) | 外野手 | 尾道商出身の外野手 |
| 9 | 堂上 照 | 14年(1972〜1985) | 投手 | 最長14年着用/堂上兄弟の父 |
| 10 | 有賀佳弘 | 1年(1986) | 捕手 | 歴代で唯一の捕手 |
| 11 | 近藤真一 | 計4年(1987、1992〜1994) | 投手 | デビュー戦ノーヒットノーラン |
| 12 | 小野和幸 | 4年(1988〜1991) | 投手 | 1988年18勝で最多勝 |
| 13 | キク山田 | 1年(1995) | 投手 | 登録名「キク」の左腕 |
| 14 | 平沼定晴 | 2年(1996〜1997) | 投手 | 落合トレードで一度は退団 |
| 15 | 猪俣 隆 | 1年(1998) | 投手 | 阪神の大卒左腕 |
| 16 | 岩瀬仁紀 | 20年(1999〜2018) | 投手 | 通算1002登板・407セーブ/殿堂入り |
| 17 | 橋本侑樹 | 7年目(2020〜現在) | 投手 | 現在の背番号「13」 |
戦後〜昭和初期の系譜
林 直明【初代背番号「13」】
1924年5月22日生/ドラフト制度前(1946年入団)
右投右打/投手/プロ通算9年
背番号「13」の期間:1年(1946)
通算成績
| 登板 | 勝利 | 敗北 | 防御率 | 奪三振 | セーブ |
|---|---|---|---|---|---|
| 182 | 51 | 58 | 3.40 | 249 | — |
※中部日本・金星・大陽・大洋・洋松時代を含むNPB通算。背番号「13」を着けたのは中部日本の1946年のみ。
記念すべき初代の背番号「13」は、愛知・一宮中出身の投手・林直明。中日の前身である中部日本に1946年に入団し、この年だけ「13」を背負った。プロ入り年の4月29日、対セネタース戦では先頭打者から5者連続四球という珍記録も残しているが、その後は所属を移しながら投げ続け、1951年には16勝を挙げるなど、通算では51勝を積み上げた息の長い投手となった。兄は同じくプロ野球選手の林安夫。番号の系譜は、この草創期の右腕から始まっている。
竹本 卓【明大出身、1試合だけ登板も】
1926年1月3日生/ドラフト制度前(1949年入団)
右投右打/内野手/プロ通算3年
背番号「13」の期間:2年(1950〜1951)
通算成績
| 試合 | 安打 | 打率 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 |
|---|---|---|---|---|---|
| 12 | 0 | .000 | 0 | 0 | 0 |
※1949〜1951年のNPB通算。内野手だが1950年に1試合だけ登板も記録している。
帝京商から明治大を経て入団した内野手。1950年から2年間、背番号「13」を着けた。出場機会は限られ、通算は12試合にとどまったが、1950年には内野手ながら1試合だけマウンドにも上がっている。1951年は球団名が「名古屋ドラゴンズ」だった時代で、草創期のドラゴンズを支えた一人だ。
小沢重光【岡崎高出身の内野手】
1933年10月15日生/ドラフト制度前(1952年入団)
右投右打/内野手/プロ通算3年
背番号「13」の期間:1年(1954)
通算成績
| 試合 | 安打 | 打率 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 |
|---|---|---|---|---|---|
| 78 | 20 | .225 | 2 | 7 | 0 |
※名古屋(1952〜53年)・中日(1954年)のNPB通算。
地元・岡崎高出身の内野手。名古屋時代の1952年から3年間在籍し、球団名が「中日」に戻った1954年に背番号「13」を着けた。この1954年は、球団が初のリーグ優勝・初の日本一に輝いた記念すべきシーズンでもある。控えの内野手として、球団史に残る黄金の一年をベンチから支えた。
小川滋夫【松山商出身の内野手】
1935年9月9日生/ドラフト制度前(1954年入団)
右投右打/内野手/プロ通算6年
背番号「13」の期間:2年(1955〜1956)
通算成績
| 試合 | 安打 | 打率 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 |
|---|---|---|---|---|---|
| 39 | 2 | .051 | 0 | 1 | 0 |
※1954〜1959年のNPB通算。NPB公式の登録名は「小川滋夫」。
愛媛の名門・松山商から入団した内野手(NPB公式の表記は「小川滋夫」)。1955年から2年間、背番号「13」を着けた。出場機会は多くなかったが、中日一筋で6年間プレーした。
加藤力雄【中京大出身の右腕】
1937年9月1日生/ドラフト制度前(1960年入団)
右投右打/投手/プロ通算(登板は1960年のみ)
背番号「13」の期間:4年(1960〜1963)
通算成績
| 登板 | 勝利 | 敗北 | 防御率 | 奪三振 | セーブ |
|---|---|---|---|---|---|
| 5 | 0 | 0 | 1.50 | 2 | — |
※登板は1960年の5試合のみ。防御率1.50と内容は悪くなかった。
松蔭高から中京大を経て入団した右腕。1960年から4年間背番号「13」を背負ったが、一軍のマウンドに立ったのは入団年の5試合のみ。それでも防御率1.50と抑えており、数少ない登板機会では確かな投球を見せた。層の厚い投手陣のなかで出番を得るのは難しかったが、番号の系譜にしっかりと名を残している。
佐野卓郎【享栄商出身の内野手】
1941年4月24日生/ドラフト制度前(1964年入団)
右投右打/内野手/プロ通算3年
背番号「13」の期間:1年(1964)
通算成績
| 試合 | 安打 | 打率 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 |
|---|---|---|---|---|---|
| 19 | 4 | .211 | 0 | 1 | 0 |
※1964〜1966年のNPB通算。
享栄商から日鉱日立を経て入団した内野手。入団年の1964年に背番号「13」を着けた。翌1965年には9試合で打率.364と気を吐いたが、出場機会は限られ、3年間の在籍にとどまった。社会人野球を経てプロ入りした、いぶし銀の内野手だった。
昭和の主軸(1960〜80年代)の系譜
小川健太郎【1967年29勝・沢村賞のアンダースロー】
1934年1月12日生/ドラフト制度前(1964年入団)
右投右打/投手/プロ通算7年
背番号「13」の期間:6年(1965〜1970)
通算成績
| 登板 | 勝利 | 敗北 | 防御率 | 奪三振 | セーブ |
|---|---|---|---|---|---|
| 253 | 95 | 66 | 2.62 | 739 | — |
主なタイトル:最多勝利1回(1967年・29勝)/沢村賞(1967年)
社会人野球を経て、29歳で中日入りしたアンダースローの右腕。1964年の入団翌年から背番号「13」を着け、独特の低い腕の角度から繰り出す変化球で打者を翻弄した。ハイライトは1967年で、55試合に登板して29勝12敗という驚異的な数字を残し、最多勝と沢村賞をダブル受賞。33歳での沢村賞は当時の最年長受賞記録で、いまも屈指の遅咲きの名投手として語られる。王貞治への“背面投げ”の逸話でも知られる異能派だった。なお1970年、いわゆる「黒い霧事件」により永久追放処分を受け、現役を終えている。
井上幸信【尾道商出身の外野手】
1950年9月25日生/1968年ドラフト3位
右投右打/外野手/プロ通算(1試合)
背番号「13」の期間:1年(1971)
通算成績
| 試合 | 安打 | 打率 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 |
|---|---|---|---|---|---|
| 1 | 0 | .000 | 0 | 0 | 0 |
※NPB公式に残る出場は1969年(大洋)の1試合のみ。中日で背番号「13」を着けた1971年は一軍出場がなかった。
広島・尾道商から1968年のドラフト3位で大洋に入団した外野手。1971年に中日へ移り、背番号「13」を着けた。ただし中日では一軍公式戦の出場がなく、NPBに記録が残るのは大洋時代の1試合のみ。プロの厳しさを象徴するような一人だが、この番号を確かに背負った選手として系譜に名を刻んでいる。
堂上 照【最長14年着用/堂上兄弟の父】
1951年6月9日生/1970年ドラフト6位
右投右打/投手/プロ通算14年
背番号「13」の期間:14年(1972〜1985)
通算成績
| 登板 | 勝利 | 敗北 | 防御率 | 奪三振 | セーブ |
|---|---|---|---|---|---|
| 320 | 35 | 49 | 4.36 | 345 | 7 |
石川・金沢高から電電北陸を経て、1970年のドラフト6位で入団した右腕。1972年から1985年まで、実に14年間にわたって背番号「13」を着け続けた。これは岩瀬仁紀に次ぐ長さで、先発に中継ぎにと息長く投手陣を支えた働き者である。派手なタイトルには縁がなかったが、1982年には防御率1.25の好リリーフを見せるなど、要所で存在感を発揮した。息子は、ともに中日でプレーした堂上剛裕・堂上直倫の兄弟。親子二代でドラゴンズに名を刻んだ一族の“父”としても知られる。
昭和末〜平成の投手たちの系譜
有賀佳弘【歴代で唯一の捕手】
1957年10月15日生/1981年ドラフト4位
右投右打/捕手/プロ通算4年
背番号「13」の期間:1年(1986)
通算成績
| 試合 | 安打 | 打率 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 |
|---|---|---|---|---|---|
| 167 | 44 | .198 | 3 | 19 | 0 |
※阪急(1982〜84年)・中日(1986年)のNPB通算。
早稲田実から早稲田大、日産自動車を経て入団した捕手。1982年から阪急でプレーし、1986年に中日へ移って背番号「13」を着けた。投手が並ぶ歴代の着用者のなかで、唯一の捕手というユニークな存在だ。中日での出場は1年限りだったが、名門・早稲田で鍛えた確かな守備でブルペンとベンチを支えた。
近藤真一【デビュー戦ノーヒットノーラン】
1968年9月8日生/1986年ドラフト1位
左投左打/投手/プロ通算7年
背番号「13」の期間:計4年(1987、1992〜1994)
通算成績
| 登板 | 勝利 | 敗北 | 防御率 | 奪三振 | セーブ |
|---|---|---|---|---|---|
| 52 | 12 | 17 | 3.90 | 157 | 0 |
※現役前半(1987〜1992年)は本名の「近藤真一」で登録し、1993年から登録名を「近藤真市」に変更。NPB公式の表記は「近藤 真市」。
享栄高から「金の卵」として12球団注目のなか、1986年のドラフト1位で入団した左腕。彼の名を球史に刻んだのは、なんといってもデビュー戦だ。1987年8月9日、プロ初登板初先発のマウンドで、いきなり巨人相手にノーヒットノーランを達成。高卒新人による初登板ノーヒットノーランはNPB史上唯一・昭和最後の快挙で、いまも「第2の近藤」は現れていない。この伝説の一戦で背負っていた番号こそ、背番号「13」だった。
その後、1988年から3年間は背番号「1」を着けたが、1992年に再び「13」へと戻ってきている(間の背番号「13」は小野和幸が着用)。1993年に登録名を「近藤真市」に改めたのもこの2度目の「13」時代だ。故障もあって初登板の輝きほど白星は伸びず通算12勝に終わったが、あの“デビュー戦の衝撃”だけで歴代屈指のトピックを持つ投手である。息子の近藤弘基も元プロ野球選手だ。
小野和幸【1988年18勝で最多勝】
1962年8月19日生/ドラフト外(1980年・西武入団)
右投右打/投手/プロ通算13年
背番号「13」の期間:4年(1988〜1991)
通算成績
| 登板 | 勝利 | 敗北 | 防御率 | 奪三振 | セーブ |
|---|---|---|---|---|---|
| 151 | 43 | 39 | 4.19 | 446 | 0 |
※西武・中日・ロッテ時代を含むNPB通算。
主なタイトル:最多勝利1回(1988年・18勝)
秋田・金足農からドラフト外で西武に入団した右腕。1987年オフに平野謙との交換トレードで中日へ移ると、背番号「13」を着けた移籍1年目の1988年にいきなり大ブレイク。29試合で18勝4敗・勝率.818をマークして最多勝を獲得し、チームの優勝争いを牽引した。その快投ぶりから「和製バレンズエラ」とも呼ばれた。翌1989年以降は成績を落とし、1992年からは背番号「11」に変更。西武時代に二軍で残した最多勝などのファームタイトルは別として、一軍での輝きは1988年に凝縮された、一発の魅力を持つ投手だった。
キク山田【登録名「キク」の左腕】
1971年7月17日生/1989年ドラフト5位
左投左打/投手/プロ通算8年
背番号「13」の期間:1年(1995)
通算成績
| 登板 | 勝利 | 敗北 | 防御率 | 奪三振 | セーブ |
|---|---|---|---|---|---|
| 222 | 6 | 8 | 3.76 | 184 | 0 |
※本名は山田喜久夫。1995〜96年は登録名を「キク」としており、背番号「13」を着けた1995年もその名義だった。中日(1990〜98年)・広島(1999年)のNPB通算。
東邦高から1989年のドラフト5位で入団した左腕(本名・山田喜久夫)。東邦高では1988年春の選抜で準優勝を経験している。背番号「13」を着けた1995年は、登録名を「キク」として35試合に登板。中継ぎ左腕として長く一軍に在籍した。引退後はわらび餅店を営むことでも知られる、ユニークな経歴の持ち主だ。
平沼定晴【落合トレードで一度は退団】
1965年3月27日生/1982年ドラフト2位
右投右打/投手/プロ通算15年
背番号「13」の期間:2年(1996〜1997)
通算成績
| 登板 | 勝利 | 敗北 | 防御率 | 奪三振 | セーブ |
|---|---|---|---|---|---|
| 342 | 18 | 22 | 4.81 | 391 | 5 |
※中日・ロッテ・西武時代を含むNPB通算。
千葉商大付から1982年のドラフト2位で中日に入団した右腕。だが1986年オフ、落合博満を中日に迎える大型トレードの交換要員としてロッテへ移った4選手の一人となった。その後、ロッテで実績を積み、1996年に古巣・中日へ復帰。この2度目の在籍で背番号「13」を着けた。中継ぎとして長く投げ続けた苦労人で、1997年には4試合ながら防御率0.00をマーク。引退後は中日の施設「昇竜館」の館長も務めた。
猪俣 隆【阪神の大卒左腕】
1964年6月27日生/1986年ドラフト1位
左投左打/投手/プロ通算10年
背番号「13」の期間:1年(1998)
通算成績
| 登板 | 勝利 | 敗北 | 防御率 | 奪三振 | セーブ |
|---|---|---|---|---|---|
| 191 | 43 | 63 | 3.68 | 623 | 3 |
※成績はすべて阪神時代(1987〜96年)。中日で背番号「13」を着けた1998年は一軍公式戦の出場がなかった。
堀越高から法政大に進み、1986年のドラフト1位で阪神に入団した左腕。低迷期の阪神で先発の一角を担い、通算43勝を挙げた技巧派である。晩年に中日へ移り、1998年に背番号「13」を着けたが、中日では一軍公式戦に登板することなく現役を終えた。表に残る成績は阪神時代のものだが、岩瀬の前年にこの番号を背負っていた、という点で系譜に名を連ねている。
岩瀬仁紀と橋本侑樹の時代
岩瀬仁紀【通算1002登板・407セーブ/殿堂入り】
1974年11月10日生/1998年ドラフト2位(逆指名)
左投左打/投手/プロ通算20年
背番号「13」の期間:20年(1999〜2018)
通算成績
| 登板 | 勝利 | 敗北 | 防御率 | 奪三振 | セーブ |
|---|---|---|---|---|---|
| 1002 | 59 | 51 | 2.31 | 841 | 407 |
主なタイトル・表彰:最優秀中継ぎ投手3回(1999・2000・2003年)/最多セーブ投手5回(2005・2006・2009・2010・2012年)/カムバック賞(2017年)/月間MVP2回
背番号「13」の系譜を語るうえで、絶対に欠かせない存在——それが岩瀬仁紀だ。愛知・西尾市出身で、愛知大からNTT東海を経て、1998年のドラフト2位で地元・中日に入団。1999年から2018年まで20年間、この番号を背負い続けた。着用年数20年は歴代最長で、まさに背番号「13」の代名詞である。
ルーキーイヤーの1999年からセットアッパーとして65試合に登板し、防御率1.57・10勝で最優秀中継ぎ投手を受賞(新人王は20勝の上原浩治に譲った)。1999年・2000年・2003年と最優秀中継ぎ投手を3回獲得したのち、2004年からは抑えに転向。ここからが本領で、11年連続20セーブ以上を記録し、最多セーブ投手のタイトルを5回手にした。得意のスライダーを武器に、5度のリーグ優勝と2007年の日本一を守護神として支えた。
そして到達したのが、通算1002登板・通算407セーブという、いずれもNPB歴代1位の大記録。これは今後も破られないとされる前人未到の金字塔だ。現役20年をすべて地元・愛知の球団で全うし、2025年には野球殿堂入りも果たした。引退後には背番号「13」を永久欠番にすべきだという声も上がったほどで、この番号を語ることは、そのまま岩瀬仁紀を語ることに等しい。
橋本侑樹【現在の背番号「13」】
1998年1月8日生/2019年ドラフト2位
左投左打/投手/2020年〜現役
背番号「13」の期間:7年目(2020〜現在)
通算成績
| 登板 | 勝利 | 敗北 | 防御率 | 奪三振 | セーブ |
|---|---|---|---|---|---|
| 148 | 6 | 4 | 3.45 | 149 | 0 |
※成績は2025年シーズン終了時点。現役のため記録は更新中。
そして、レジェンドが去ったあとの背番号「13」を託されたのが橋本侑樹だ。福井・大飯高浜町の出身で、大垣日大高から大阪商業大に進み、2019年のドラフト2位で入団した左腕。岩瀬の引退で空いた番号を、2020年から受け継いだ。2024年には47試合に登板して防御率1.73と飛躍し、左のリリーバーとして中継ぎ陣の柱に成長。偉大な先輩と同じ番号を背負うプレッシャーを力に変えながら、現在もこの「13」を背負ってマウンドに立ち続けている。次の歴史を刻むのは、この左腕だ。
歴代背番号「13」 全員の通算成績(フルキャリア合計)
歴代17人の通算成績を、それぞれの“フルキャリア”でまるごと合算してみた(他球団での成績もすべて含む)。投手11人の投手成績と、野手6人の打撃成績に分けて掲載する。投手王国らしく、その顔ぶれはやはり投手が中心だ。
投手成績(投手11人の合計)
| 項目 | 投手11人の合計 |
|---|---|
| 登板 | 2,868 |
| 勝利 | 368 |
| 敗北 | 377 |
| セーブ | 422 |
| 奪三振 | 4,126 |
| 投球回 | 6,884.2 |
| 防御率 | 3.49 |
※投手として登録された11人(林・加藤力雄・小川健太郎・堂上照・近藤真一・小野和幸・キク山田・平沼定晴・猪俣隆・岩瀬仁紀・橋本侑樹)の合計。防御率は通算自責点2,673×9÷通算投球回6,884.2回で算出。橋本侑樹は現役のため2025年シーズン終了時点。
打撃成績(野手6人の合計)
| 項目 | 野手6人の合計 |
|---|---|
| 試合数 | 316 |
| 安打 | 70 |
| 打率 | .188 |
| 本塁打 | 5 |
| 打点 | 28 |
| 盗塁 | 0 |
※野手として登録された6人(竹本卓・小沢重光・小川滋夫・佐野卓郎・井上幸信・有賀佳弘)の打撃合計。打率は単純平均ではなく「総安打÷総打数」で算出。竹本卓が記録した1試合の登板は投手合計には含めていない。
422セーブのうち407、2868登板のうち1002を岩瀬仁紀ひとりが占める——数字を並べるだけで、この番号がいかに“岩瀬の番号”であるかが伝わってくる。
まとめ
初代の林直明から現在の橋本侑樹まで、中日ドラゴンズの背番号「13」を背負ったのは17人。その多くが投手で、1967年に29勝・沢村賞に輝いた小川健太郎、デビュー戦でノーヒットノーランを演じた近藤真一、移籍1年目に18勝で最多勝を獲得した小野和幸と、記憶に残る右腕・左腕が次々とこの番号を受け継いできた。
そして20年にわたって「13」を背負い、通算1002登板・407セーブという不滅の記録を打ち立てた岩瀬仁紀の存在が、この番号を特別なものにしている。いま、その系譜を受け継ぐのは橋本侑樹だ。守護神の背中を追いかける左腕が、背番号「13」の物語をどう書き継いでいくのか——これからも見守っていきたい。


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