背番号「7」は、中日ドラゴンズの歴史のなかで最も顔ぶれの幅が広い番号かもしれない。球団創設の1936年から現在まで、この番号を着けたのは28人。遊撃手として史上初の本塁打王になった宇野勝が14年にわたって背負った一方で、わずか1年で「7」から去った選手も少なくない。しかも、その中には大リーグの殿堂入り選手や、韓国球界の伝説が何人も混じっている。おもしろいのは、中日で「7」を着けた3人が、母国では球団が番号を永久欠番にするほどの選手だったことだ。クリーブランドの14番、LGツインズの9番、そして起亜タイガースの7番。本記事では、歴代28人の在籍期間・通算成績・獲得タイトルを、ひとりずつ辿っていく。
中日ドラゴンズ 歴代背番号7 一覧
| 代 | 選手名 | 背番号7の期間 | ポジション | ひとこと |
|---|---|---|---|---|
| 1 | 鈴木秀雄 | 1年(1936) | 捕手 | 初代背番号7 |
| 2 | 森井茂 | 2年(1937〜1938) | 投手 | 開幕投手6回の球団記録 |
| 3 | 天野竹一 | 2年(1939〜1940) | 内野手 | 戦前の内野手 |
| 4 | 野口正明 | 3年(1942〜1943・1947) | 投手・内野手 | 最多勝/シベリア抑留から復帰 |
| 5 | 沖実郎 | 2年(1949〜1950) | 投手 | 3登板の左腕 |
| 6 | 松本和雄 | 3年(1950〜1952) | 内野手 | 国民リーグからの復帰組 |
| 7 | 山崎善平 | 5年(1953〜1957) | 外野手 | 代走・守備固めの職人 |
| 8 | 森徹 | 4年(1958〜1961) | 外野手 | 本塁打王・打点王の二冠 |
| 9 | 中村武敏 | 1年(1962) | 捕手 | 通算2試合 |
| 10 | L.ドビー | 1年(1962) | 外野手 | ア・リーグ初の黒人選手/米国殿堂入り |
| 11 | 伊藤竜彦 | 8年(1963〜1970) | 内野手 | 中京商から中日一筋 |
| 12 | 新宅洋志 | 8年(1971〜1978) | 捕手 | 系譜初のドラフト経由 |
| 13 | 宇野勝 | 14年(1979〜1992) | 内野手 | 遊撃手初の本塁打王 |
| 14 | B.ジャコビー | 1年(1993) | 内野手 | MLBオールスター2回 |
| 15 | M.ステアーズ | 1年(1993) | 内野手 | 代打本塁打MLB歴代最多/カナダ殿堂入り |
| 16 | 横田真之 | 1年(1994) | 外野手 | ベストナイン2回 |
| 17 | M.ホール | 1年(1995) | 外野手 | ヤンキースの4番 |
| 18 | 山田和利 | 1年(1996) | 内野手 | 地元・東邦高出身 |
| 19 | 森野将彦 | 7年(1997〜1999・2014〜2017) | 内野手 | 唯一、二度着けた男 |
| 20 | 李鍾範 | 3年(1999〜2001) | 内野手 | 韓国のイチロー/起亜で7番が永久欠番 |
| 21 | 谷繁元信 | 2年(2002〜2003) | 捕手 | 通算3021試合/殿堂入り |
| 22 | 川相昌弘 | 3年(2004〜2006) | 内野手 | 犠打533の世界記録 |
| 23 | 李炳圭 | 3年(2007〜2009) | 外野手 | KBO2043安打/LGで9番が永久欠番 |
| 24 | セサル | 1年(2010) | 外野手 | メキシコの首位打者 |
| 25 | 佐伯貴弘 | 1年(2011) | 外野手 | 19年目の最終年に着けた7 |
| 26 | 山﨑武司 | 2年(2012〜2013) | 内野手 | 本塁打王2回/両リーグでベストナイン |
| 27 | 根尾昂 | 6年(2019〜2024) | 内野手・外野手・投手 | 二刀流の期待、7番のまま投手へ |
| 28 | 福永裕基 | 2年目(2025〜現在) | 内野手 | 現在の背番号7 |
戦前〜戦後復興期の系譜(1936〜1957)
鈴木秀雄【初代背番号7】
1918年10月9日生/ドラフト制度前(1936年入団)
右投両打/捕手/プロ通算11年
背番号7の期間:1年(1936)
通算成績
| 試合 | 安打 | 打率 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 |
|---|---|---|---|---|---|
| 393 | 193 | .181 | 6 | 74 | 60 |
初代の背番号7は、静岡・榛原中から全静岡を経て入団した捕手・鈴木秀雄。球団創設初年度の1936年にこの番号を着けた。打率は通算.181と低いが、名古屋軍からライオン、大和、産業、中部日本へと球団名が目まぐるしく変わる激動の11年間を、捕手として393試合戦い抜いている。両打ちの捕手で通算60盗塁を記録しているのも、当時としては珍しい。系譜の出発点は、この番号を1年だけ着けて次へ渡した、地味だが息の長い選手だった。
森井茂【開幕投手6回の球団記録】
1915年4月12日生/ドラフト制度前(1936年入団)
右投右打/投手/プロ通算12年
背番号7の期間:2年(1937〜1938)
通算成績
| 〈投手成績〉 | ||||||
|---|---|---|---|---|---|---|
| 登板 | 勝利 | 敗北 | 完投 | 投球回 | 奪三振 | 防御率 |
| 233 | 53 | 93 | 75 | 1350.1 | 368 | 3.11 |
| 〈打撃成績〉 | |||||
|---|---|---|---|---|---|
| 試合 | 安打 | 打率 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 |
| 243 | 100 | .196 | 0 | 31 | 3 |
宇治山田商から大津晴嵐クラブを経て、球団創設の1936年に入団した右腕。デビュー年の秋に26試合8勝5敗を挙げ、これは13勝2敗の沢村栄治に次ぐリーグ2位の成績だった。翌1937年春に初めて開幕投手を任されると、以後1946年まで通算6度も開幕のマウンドに立っている。この6回という球団記録は、2014年に川上憲伸が更新するまで、実に70年以上も破られなかった。
1937年8月29日の秋季リーグ開幕戦・イーグルス戦では、相手の藤野文三郎と投げ合い、当時のプロ野球記録となる1試合57分という最短試合を完封で樹立している。一方で対巨人戦では1938年春から1944年にかけて15連敗を喫しており、通算成績も53勝93敗と負けが大きく先行した。タイトルには一度も手が届いていないが、球団の草創期を支えた投手として記録に名を残している。
天野竹一【戦前の内野手】
1920年生/ドラフト制度前(1939年入団)
右投右打/内野手/プロ通算2年
背番号7の期間:2年(1939〜1940)
通算成績
| 試合 | 安打 | 打率 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 |
|---|---|---|---|---|---|
| 30 | 3 | .100 | 0 | 5 | 1 |
掛川中から明治大を経て1939年に名古屋軍入り。背番号7を2年間着けたが、公式戦出場は通算30試合・3安打にとどまり、1940年限りでユニフォームを脱いだ。歴代の背番号7のなかでも、出場機会が最も少ない部類の選手のひとりである。生年は1920年とだけ記録されており、月日は判明していない。
野口正明【最多勝/シベリア抑留から復帰】
1925年3月7日生(2004年3月24日没)/ドラフト制度前(1942年入団)
右投右打/投手・内野手/プロ通算11年
背番号7の期間:3年(1942〜1943・1947)
通算成績
| 〈投手成績〉 | ||||||
|---|---|---|---|---|---|---|
| 登板 | 勝利 | 敗北 | 完投 | 投球回 | 奪三振 | 防御率 |
| 225 | 83 | 65 | 74 | 1301.2 | 367 | 3.15 |
| 〈打撃成績〉 | |||||
|---|---|---|---|---|---|
| 試合 | 安打 | 打率 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 |
| 374 | 161 | .206 | 9 | 70 | 5 |
主なタイトル:最多勝利1回(1952年・23勝)
福岡・飯塚商から1942年に名古屋軍へ入団。戦前は投手としても内野手としても起用された。1945年と1946年に出場記録がないのは、応召とシベリア抑留のためである。復帰後の1947年に再び背番号7を着け、その後は急映、大映と渡り歩いたのち、地元・九州に誕生した西鉄へ入団した。
西鉄では川崎徳次とともに先発の柱となり、1952年に23勝を挙げてパ・リーグ最多勝を獲得。これは西鉄というチームにとって、球団史上第一号のタイトルだった。同年4月1日には史上41人目の通算1000投球回も達成している。しかし翌1953年に肩を痛め、1954年限りで現役を退いた。中日で7番を着けた男が、移った先で新球団に最初のタイトルをもたらしたことになる。
沖実郎【3登板の左腕】
1927年7月12日生/ドラフト制度前
左投左打/投手/プロ通算2年
背番号7の期間:2年(1949〜1950)
通算成績
| 〈投手成績〉 | ||||||
|---|---|---|---|---|---|---|
| 登板 | 勝利 | 敗北 | 完投 | 投球回 | 奪三振 | 防御率 |
| 3 | 0 | 1 | 0 | 7.1 | 2 | 5.63 |
松本商出身の左腕。公式戦での登板は1948年と1949年のわずか3試合、投球回にして7回1/3だけだった。背番号7を着けたのは1949年からで、1950年も在籍していたが公式戦のマウンドには立っていない。歴代の背番号7で、最も登板の少ない投手である。
松本和雄【国民リーグからの復帰組】
1923年8月18日生/ドラフト制度前(1948年入団)
右投右打/内野手/プロ通算5年
背番号7の期間:3年(1950〜1952)
通算成績
| 試合 | 安打 | 打率 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 |
|---|---|---|---|---|---|
| 521 | 452 | .259 | 11 | 157 | 57 |
愛知商から明治大へ進み、独立リーグとして短命に終わった国民リーグの宇高レッドソックスを経て、1948年に大陽へ入団という変わった経歴の持ち主。1949年には153安打・打率.305を記録し、翌1950年に中日へ移って背番号7を着けた。移籍1年目に124安打・52打点・29盗塁と主力の働きを見せている。タイトルには届かなかったが、5年で521試合に出場し、戦後復興期の内野を支えた。
山崎善平【代走・守備固めの職人】
1926年4月21日生/ドラフト制度前(1950年入団)
右投右打/外野手/プロ通算7年
背番号7の期間:5年(1953〜1957)
通算成績
| 試合 | 安打 | 打率 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 |
|---|---|---|---|---|---|
| 383 | 133 | .217 | 1 | 39 | 50 |
読みは「やまさき」。都立十二中から明治大を経て1950年に大洋へ入団し、1952年から名古屋(のちの中日)でプレーした。背番号7を着けたのは1953年からの5年間。383試合に出場して安打は133本、本塁打は7年間でわずか1本だったが、盗塁は50を数える。打席に立つより、代走や守備固めで終盤に呼ばれることの多い選手だった。1954年には球団史上初の日本一も経験している。
昭和の主軸と、初の助っ人(1958〜1978)
森徹【本塁打王・打点王の二冠】
1935年11月3日生(2014年2月6日没)/ドラフト制度前(1958年入団)
右投右打/外野手/プロ通算11年
背番号7の期間:4年(1958〜1961)
通算成績
| 試合 | 安打 | 打率 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 |
|---|---|---|---|---|---|
| 1177 | 971 | .251 | 189 | 585 | 56 |
主なタイトル・表彰:本塁打王1回(1959年)/打点王1回(1959年)/ベストナイン3回(1958〜1960年)
旧満州に生まれ、北海道函館市で育ち、早大学院高から早稲田大へ。1958年に鳴り物入りで中日へ入団すると、いきなり開幕4番に座って112試合で23本塁打を放った。ところがこの年、同じくルーキーだった巨人・長嶋茂雄が29本92打点で二冠。新人王は長嶋のものとなり、森は次点に甘んじている。
雪辱は翌年に果たした。1959年、130試合で31本塁打・87打点を叩き出し、本塁打王と打点王の二冠を獲得。ただしこの本塁打王も、31本の同数で大洋の桑田武と分け合ったものだった。しかも桑田はこの年の新人王。2年続けて、栄冠を新人と分かち合う形になったのは巡り合わせというほかない。1961年限りで大洋へ移り、東京を経て1968年に引退。通算189本塁打を残した。背番号7の系譜のなかで、リーグのタイトルを打者として獲得した最初の選手である。
中村武敏【通算2試合】
1941年2月15日生/ドラフト制度前(1962年入団)
右投右打/捕手/プロ通算1年
背番号7の期間:1年(1962)
通算成績
| 試合 | 安打 | 打率 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 |
|---|---|---|---|---|---|
| 2 | 0 | — | 0 | 0 | 0 |
大分・津久見高から社会人の日鉄二瀬を経て、1962年に入団した捕手。背番号7を着けたのはこの1962年だが、一軍の公式戦に出たのは翌1963年の2試合だけで、しかも打席には一度も立っていない。歴代の背番号7で、最も出場記録の少ない選手である。
L.ドビー【ア・リーグ初の黒人選手/米国殿堂入り】
1923年12月13日生(2003年6月18日没)
右投左打/外野手/MLB13年・NPB1年
背番号7の期間:1年(1962)
通算成績
| 区分 | 試合 | 安打 | 打率 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| MLB(13年) | 1533 | 1515 | .283 | 253 | 970 | 47 |
| NPB(1年) | 72 | 54 | .225 | 10 | 35 | 0 |
中村武敏と入れ替わるように、1962年のシーズン途中から背番号7を着けたのが、ラリー・ドビーだった。中日での成績は72試合・10本塁打。数字だけ見れば、ひと夏の助っ人にすぎない。だがこの男がアメリカで何をしてきたかを知ると、背番号7の系譜はまるで違う顔を見せる。
ドビーは、アメリカン・リーグで初めてプレーした黒人選手である。1947年7月5日、クリーブランドでのデビュー。ジャッキー・ロビンソンがナショナル・リーグの壁を破ってから、わずか11週間後のことだった。当時の両リーグは別々の組織で、ドビーは自分の戦いを一人で戦うしかなかった。デビュー時、彼はまだ23歳である。
そこから彼が刻んだのは「初」の連続だった。1948年、黒人選手として初めてワールドシリーズで本塁打を放ち、サチェル・ペイジとともに黒人選手初のワールドシリーズ制覇を経験。1952年には32本塁打を放ち、黒人選手として史上初めて、いずれかのリーグの本塁打王になった。1954年にも32本で本塁打王、さらに126打点で打点王にも輝いている。1950年にはジョー・ディマジオを抑えて「球界最高の中堅手」に選出され、オールスターには1949年から7年続けて選ばれた。
中日を最後にユニフォームを脱いだあと、1978年にホワイトソックスの監督に就任。これはMLB史上2人目の黒人監督だった。1998年に米国野球殿堂入り。クリーブランドは1994年、彼の背番号14を永久欠番にしている。2015年には球場の入口に銅像が建てられた。中日で7番を着けた男の番号は、海の向こうでは「14」として永久に残っている。
※MLBの成績は、アメリカン・リーグでの13年間のもの。ニグロリーグ(ニューアーク・イーグルス/5年)を加えると1674試合・1697安打・打率.288・273本塁打・1093打点となる。
※投打と生年月日は、NPB公式の登録内容(左投左打/1924年12月13日生)ではなく、米国野球殿堂など現地の記録(右投左打/1923年12月13日生)に従った。
伊藤竜彦【中京商から中日一筋】
1940年10月19日生/ドラフト制度前(1959年入団)
右投右打/内野手/プロ通算13年
背番号7の期間:8年(1963〜1970)
通算成績
| 試合 | 安打 | 打率 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 |
|---|---|---|---|---|---|
| 1063 | 546 | .230 | 33 | 183 | 20 |
地元・中京商から1959年に入団。デビュー年こそ12試合の出場だったが打率.313と気を吐き、1962年に118試合でレギュラーの座を掴んだ。背番号7を着けたのは翌1963年からの8年間である。キャリアハイは1964年で、138試合に出場して135安打・6本塁打・43打点、打率.262。タイトルには縁がなかったが、1000試合以上を戦い抜いた。1971年に近鉄へ移り、その年限りで現役を退いている。
新宅洋志【系譜初のドラフト経由】
1943年12月9日生/1965年ドラフト2位
右投右打/捕手/プロ通算13年
背番号7の期間:8年(1971〜1978)
通算成績
| 試合 | 安打 | 打率 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 |
|---|---|---|---|---|---|
| 601 | 196 | .213 | 10 | 77 | 6 |
島根・浜田高から駒沢大へ進み、1965年のドラフト2位で中日入り。背番号7の歴代着用者のうち、ドラフト制度を経て入団した最初の選手である。それまでの12人はすべて制度創設前の入団だった。1967年に88試合へ出場して自己最多を記録し、1971年から8年間この番号を着けた。1976年には52試合で打率.308と、自己最高の数字を残している。13年間を中日一筋で過ごした捕手だった。
宇野勝の14年と、その後の空白(1979〜1996)
宇野勝【遊撃手初の本塁打王】
1958年5月30日生/1976年ドラフト3位
右投右打/内野手/プロ通算18年
背番号7の期間:14年(1979〜1992)
通算成績
| 試合 | 安打 | 打率 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 |
|---|---|---|---|---|---|
| 1802 | 1620 | .262 | 338 | 936 | 78 |
主なタイトル・表彰:本塁打王1回(1984年)/ベストナイン3回(1982・1984・1987年)
※以下は主なタイトルに含めない
・日本シリーズ敢闘選手賞1回(1988年/日本シリーズの表彰)
千葉・銚子商から1976年ドラフト3位で入団。「ウーヤン」の愛称で親しまれたこの男が、歴代28人のなかで最も長く、14年にわたって背番号7を背負った。しかもその14年間だけで331本塁打。中日での通算334本は球団最多記録である。
1984年、37本塁打で本塁打王を獲得。遊撃手が本塁打王になったのは史上初めてだった。翌1985年には41本を放ち、これは今も遊撃手のシーズン最多本塁打として残っている。ベストナインは1982年から1987年にかけて3度。ところがゴールデングラブ賞には、ついに一度も手が届かなかった。当時のセ・リーグの遊撃手部門は、山下大輔から平田勝男、そして川相昌弘へと受賞者が並び、宇野が割って入る隙がなかったのである。
オールスターへの出場も、20本塁打以上を9回記録しながら3回にとどまっている。山下大輔、高橋慶彦、池山隆寛——人気と実力を兼ね備えた遊撃手が同じリーグにひしめいていた時代だった。1992年オフ、長嶋清幸とともに横田真之・今野隆裕との交換トレードでロッテへ移籍。14年続いた背番号7は、ここで空く。
B.ジャコビー【MLBオールスター2回】
1959年11月23日生
右投右打/内野手/MLB11年・NPB1年
背番号7の期間:1年(1993)
通算成績
| 区分 | 試合 | 安打 | 打率 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| MLB(11年) | 1311 | 1220 | .270 | 120 | 545 | 16 |
| NPB(1年) | 18 | 11 | .183 | 2 | 6 | 0 |
宇野が去った1993年、その番号を受け継いだのはクリーブランドの正三塁手だったブルック・ジャコビー。1983年にレン・バーカーとの交換トレードでブレーブスから移り、1984年から8年間クリーブランドの三塁を守った男である。オールスターには1986年と1990年の2度選ばれ、2001年には球団100周年の「100 Greatest Indians」にも名を連ねている。
面白いのは、彼のキャリアハイが1987年——打率.300・32本塁打といずれも自己最高を記録した年——だったにもかかわらず、その年はオールスターに選ばれていないことだ。チームが61勝101敗と大きく負け越したためだった。中日では18試合・打率.183と結果を残せず、シーズン途中で退団している。
M.ステアーズ【代打本塁打MLB歴代最多/カナダ殿堂入り】
1968年2月27日生
右投左打/外野手/MLB19年・NPB1年
背番号7の期間:1年(1993)
通算成績
| 区分 | 試合 | 安打 | 打率 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| MLB(19年) | 1895 | 1366 | .262 | 265 | 899 | 30 |
| NPB(1年) | 60 | 33 | .250 | 6 | 23 | 1 |
ジャコビーが去ったあとの1993年、同じ背番号7を着けたのがマット・ステアーズだった。中日では60試合・打率.250・6本塁打。25歳の、まだ何者でもない選手である。カナダのニューブランズウィック州で生まれ、本当はホッケー選手になるつもりだったが、高校時代の膝の大怪我で野球に転向したという経歴の持ち主だ。しかも当時のポジションは遊撃手。1988年のソウル五輪にはカナダ代表の遊撃手として出場している。
この男が本格的に開花するのは、中日を去ってからだった。29歳で初めてまとまった出場機会を得ると、そこから19年間、12球団を渡り歩いて265本塁打。とりわけ代打での本塁打23本は、いまもMLB歴代最多記録である。「マット・ステアーズ、プロフェッショナル・ヒッター」と呼ばれた。19年で12球団というのも、MLB史上の野手では最多だ。ただし、265本を打ちながらオールスターには一度も選ばれていない。250本塁打以上でオールスター未経験という選手は、MLBの長い歴史でもごくわずかしかいない。2008年ナ・リーグ優勝決定シリーズ第4戦で放った代打2ランはフィリーズをワールドシリーズ制覇へ導き、2015年にはカナダ野球殿堂入りを果たしている。中日で7番を着けた60試合は、その長いキャリアのごく入口にすぎなかった。
※生年月日は、NPB公式の登録内容(1969年2月27日生)ではなく、カナダ野球殿堂など現地の記録(1968年2月27日生)に従った。
横田真之【ベストナイン2回】
1962年11月26日生/1984年ドラフト4位
右投左打/外野手/プロ通算10年
背番号7の期間:1年(1994)
通算成績
| 試合 | 安打 | 打率 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 |
|---|---|---|---|---|---|
| 917 | 727 | .279 | 38 | 239 | 108 |
主なタイトル・表彰:ベストナイン2回(1985・1986年)
高知・明徳高(現・明徳義塾高)から駒沢大を経て、1984年ドラフト4位でロッテ入り。1992年オフ、宇野勝との交換トレードで中日へやってきた。14年間7番を背負った男を放出した見返りに来た選手が、2年後に同じ7番を着けることになる。
ロッテ時代の横田は、紛れもない主力だった。ルーキーイヤーの1985年に124試合で122安打・打率.300。新人王の記者投票では熊野輝光(阪急)に83票対57票で敗れて次点に終わったが、同じ年のベストナインでは外野手として93票を集め、熊野の86票を上回って選出されている。新人王を逃した選手が、その新人王を票で上回った格好だった。翌1986年も打率.304で2年連続のベストナイン。新人から2年続けて規定打席に到達して3割を打ったのは、1958・1959年の長嶋茂雄以来、史上2人目である。
1985年の最終戦には、こんな一幕もあった。打率.3005で迎えた第3打席で死球を受け、打数が増えなかったおかげで打率.30049となり、3割を死守したのだ。稲尾和久監督が「数字は気にしなくていい」と打席に送り出した結果だった。だが中日での2年間は苦しく、1993年は27試合で1安打。背番号7を着けた1994年は、一軍公式戦に一度も出場していない。1995年に西武で14試合に出て、ユニフォームを脱いだ。
M.ホール【ヤンキースの4番】
1960年9月16日生
左投左打/外野手/MLB12年・NPB3年
背番号7の期間:1年(1995)
通算成績
| 区分 | 試合 | 安打 | 打率 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| MLB(13年) | 1276 | 1171 | .276 | 134 | 620 | 31 |
| NPB(3年) | 298 | 311 | .278 | 64 | 207 | 36 |
1978年ドラフト2巡目でカブス入り。インディアンス、ヤンキースと渡り歩き、メジャーでは主に4番を打った。1993年に2年連続最下位だったロッテへ破格の待遇で入団すると、いきなり129試合で30本塁打・92打点・21盗塁、打率.296。チーム内の打率・本塁打・打点・盗塁のすべてで首位に立ち、OPSはリーグ1位だった。守備に難があったため、出場はすべて指名打者としてである。
1994年に成績を落として退団し、1995年に中日へ移って背番号7を着けた。だが50試合で打率.236・12本塁打に終わり、6月27日を最後に一軍から姿を消して、この年限りで日本を去っている。翌1996年にはジャイアンツで25試合に出場し、そこで現役を終えた。NPBを退団後の2009年、アメリカで未成年者への性的暴行により有罪判決を受け、服役している。
山田和利【地元・東邦高出身】
1965年6月3日生/1983年ドラフト4位
右投右打/内野手・外野手/プロ通算11年
背番号7の期間:1年(1996)
通算成績
| 試合 | 安打 | 打率 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 |
|---|---|---|---|---|---|
| 366 | 227 | .262 | 22 | 102 | 21 |
名古屋市中村区に生まれ、地元の東邦高から1983年ドラフト4位で中日入り。1988年には82試合に出場し、リーグ優勝に貢献した。1991年に広島へ移ると、1995年には94試合で12本塁打・53打点と自己最多の数字を残している。
そして1996年、11年ぶりに中日へ戻り、背番号7を受け取った。だがこの年、一軍公式戦には一度も出場していない。横田真之の1994年に続いて、7番を着けながら一軍のグラウンドに立てなかった2人目である。これが現役最後の年となり、翌1997年からは背番号95を着けて中日のコーチを務めた。宇野勝が去ってからの4年間で、背番号7は5人の手に渡り、そのうち2人は一軍で1試合も出ないまま番号を返している。
世紀をまたぐ継承(1997〜2017)
森野将彦【唯一、二度着けた男】
1978年7月28日生/1996年ドラフト2位
右投左打/内野手/プロ通算21年
背番号7の期間:7年(1997〜1999・2014〜2017)
通算成績
| 試合 | 安打 | 打率 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 |
|---|---|---|---|---|---|
| 1801 | 1581 | .277 | 165 | 782 | 18 |
主なタイトル・表彰:ベストナイン1回(2010年)/ゴールデングラブ賞1回(2014年)
※以下は主なタイトルに含めない
・日本シリーズ優秀選手賞1回(2007年/日本シリーズの表彰)
・オールスターゲーム優秀選手賞1回(2007年/オールスター戦の表彰)
神奈川の東海大相模高から1996年ドラフト2位で入団。歴代28人のなかで、背番号7を二度着けた唯一の選手である。一度目は入団直後の1997年から3年間。18歳の新人が着けた番号だった。ただし1998年と1999年は一軍公式戦に出場していない。その後は背番号30、次いで31を着け、2000年代後半に打線の中心へと成長する。2010年には三塁手としてベストナインを獲得した。
そして2014年、35歳で再び7番に戻る。この年、一塁手としてシーズンを通して起用され、打率.288・13本塁打、チームトップの86打点。オフに、自身初となるゴールデングラブ賞を受賞した。プロ入り18年目での初受賞は、当時の史上最遅記録である。17年前に18歳で着けた番号に戻った年、初めて守備の賞を手にしたことになる。2017年限りで引退するまで、中日一筋21年を過ごした。
李鍾範【韓国のイチロー/起亜で7番が永久欠番】
1970年8月15日生
右投右打/外野手・内野手/KBO19年・NPB4年
背番号7の期間:3年(1999〜2001)
通算成績
| 区分 | 試合 | 安打 | 打率 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| KBO(19年) | 1706 | 1797 | .297 | 194 | 730 | 510 |
| NPB(4年) | 311 | 286 | .261 | 27 | 99 | 53 |
「韓国のイチロー」「風の息子」「野球天才」——呼び名の数だけ、この男が母国でどう見られていたかがわかる。1993年に海太タイガース(のちの起亜)へ入団すると、いきなり韓国シリーズMVP。1994年には打率.393・196安打・84盗塁で首位打者・盗塁王・最多安打・最高出塁率の4冠とMVPを独占した。この年の84盗塁は、いまもKBOのシーズン記録である。1997年には打率.324・30本塁打・64盗塁でKBO史上初のトリプルスリー。当時、30本塁打と60盗塁を同じ年に記録した選手は、MLBにも日本にもいなかった。
1998年に中日入り。遊撃手だった男は外野手に転向し、4年間で286安打・53盗塁を残した。2001年途中に韓国へ戻り、起亜で2012年まで現役を続ける。KBO通算1797安打・194本塁打、そして510盗塁は韓国歴代2位。
引退の日、起亜は彼の背番号7を永久欠番にした。宣銅烈に次ぐ、球団史上2人目である。2012年5月26日の引退セレモニーでは、その日の起亜の選手全員が、背番号7に李鍾範の名前が入ったユニフォームを着てグラウンドに立った。中日の7番は永久欠番ではない。だが同じ番号が、海を越えた先では永久に誰も着けられない番号になっている。
なお、息子の李政厚は2021・2022年に首位打者、2022年にはMVPを獲得し、KBO史上初の父子首位打者・父子MVPとなった。その李政厚は、父が中日でプレーしていた1998年に、名古屋で生まれている。
谷繁元信【通算3021試合/殿堂入り】
1970年12月21日生/1988年ドラフト1位
右投右打/捕手/プロ通算27年
背番号7の期間:2年(2002〜2003)
通算成績
| 試合 | 安打 | 打率 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 |
|---|---|---|---|---|---|
| 3021 | 2108 | .240 | 229 | 1040 | 32 |
主なタイトル・表彰:ベストナイン1回(1998年)/ゴールデングラブ賞6回(1998・2006・2007・2009・2011・2012年)
※以下は主なタイトルに含めない
・最優秀バッテリー賞4回(1998・2004・2006・2011年/投手との組に対する表彰)
広島県庄原市に生まれ、島根の江の川高(現・石見智翠館高)から1988年ドラフト1位で大洋へ。1998年には佐々木主浩とともに横浜の38年ぶり日本一を支え、ベストナインとゴールデングラブ賞を初めて獲得した。2002年にFAで中日へ移籍すると、最初の2年間だけ背番号7を着けている。歴代の背番号7で、通算成績が最も大きい選手である。
通算3021試合はNPB記録。捕手としての2963試合はギネス世界記録に認定されている。2013年には通算2000安打も達成した。ゴールデングラブ賞は横浜で1度、中日で5度の計6度。最優秀バッテリー賞は佐々木主浩、川上憲伸(2度)、吉見一起と組んで4度受賞している。2004年からは背番号27に変わり、2014年から2016年までは選手兼任監督も務めた。2024年、黒田博樹とともに野球殿堂入りを果たしている。
川相昌弘【犠打533の世界記録】
1964年9月27日生/1982年ドラフト4位
右投右打/内野手・外野手/プロ通算23年
背番号7の期間:3年(2004〜2006)
通算成績
| 試合 | 安打 | 打率 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 |
|---|---|---|---|---|---|
| 1909 | 1199 | .266 | 43 | 322 | 47 |
主なタイトル・表彰:ベストナイン1回(1994年)/ゴールデングラブ賞6回(1989〜1991・1993・1994・1996年)
※以下は主なタイトルに含めない
・セ・リーグ連盟特別表彰(会長特別賞)2003年(通算犠打の世界記録達成に対する特別表彰で、公式タイトルではない)
・ヤナセ・ジャイアンツMVP賞1回(1990年/球団賞)
岡山南高から1982年ドラフト4位で巨人へ。指名されたときのポジションは投手で、入団直後に内野手へ転向している。遊撃手として1989年から1996年にかけてゴールデングラブ賞を6度受賞し、1994年にはベストナインにも選ばれた。2004年から3年間、中日で背番号7を着けている。宇野勝がゴールデングラブ賞に一度も手が届かなかったのは、この川相らが同じ時代の遊撃手部門を占めていたためでもあった。
通算533犠打は世界記録である。2003年にはこの記録に対してセ・リーグから会長特別賞が贈られた。「バント職人」と呼ばれながら、通算1199安打を打ち、遊撃の守備でも6度表彰された選手だった。2026年1月の殿堂入り投票では、あと2票届かず選出を逃している。
李炳圭【KBO2043安打/LGで9番が永久欠番】
1974年12月8日生
左投左打/外野手/KBO17年・NPB3年
背番号7の期間:3年(2007〜2009)
通算成績
| 区分 | 試合 | 安打 | 打率 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| KBO(17年) | 1741 | 2043 | .311 | 161 | 972 | 147 |
| NPB(3年) | 265 | 253 | .254 | 28 | 119 | 1 |
李鍾範が去って6年後、同じ背番号7に、もう一人の「韓国のイチロー」が現れた。李炳圭である。愛称は「赤兎馬」。1997年にLGツインズへ入団すると、いきなり打率3割で新人王。1999年には打率.349・30本塁打・31盗塁を記録し、李鍾範に次ぐKBO史上2人目のトリプルスリーを達成した。左打者では史上初である。背番号7の系譜には、KBOでトリプルスリーを達成した1人目と2人目が、揃って名を刻んでいることになる。
KBOでは首位打者2回、最多安打4回、ゴールデングラブ賞7回。2013年には38歳8か月でサイクルヒットを放ち、KBO最年長記録を更新。同じ年に最年長の首位打者にもなっている。なお韓国のゴールデングラブ賞は、日本と違って守備を評価する賞ではなく、指名打者部門も存在する。
2006年オフ、宣銅烈・李相勲・李鍾範に次いで、韓国人選手として4人目の中日入り。3年間で253安打を残した。2010年にLGへ復帰し、2016年まで現役を続けて通算2043安打・打率.311。2017年7月9日、引退式とともに背番号9の永久欠番セレモニーが行われた。2022年にはKBO発足40周年の「レジェンド40人」にも選ばれている。
※生年月日は、NPB公式の登録内容(1974年10月25日)ではなく、新暦の1974年12月8日に従った。登録上の10月25日は旧暦であることが判明しており、本人も引退発表の際、旧暦の誕生日にあたる2016年11月24日を選んで引退を決めたと語っている。
セサル【メキシコの首位打者】
1976年9月27日生
右投両打/外野手/NPB1年
背番号7の期間:1年(2010)
通算成績(NPB)
| 試合 | 安打 | 打率 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 |
|---|---|---|---|---|---|
| 51 | 40 | .215 | 1 | 10 | 2 |
ドミニカ共和国生まれのスイッチヒッター。18歳で渡米したが、アスレチックス、ブルワーズ、レッズ、エクスポズ、ホワイトソックスと傘下を渡り歩いて、メジャー昇格は一度もなく3Aが最高だった。2005年には台湾の中信ホエールズにも在籍している。
転機はメキシコだった。2009年、バケロス・ラグナで首位打者とリーグMVPを獲得。その年のドミニカ・ウィンターリーグ期間中の入団テストで森繁和ヘッドコーチの目に留まり、12月に年俸25万ドルで中日と契約する。2010年のオープン戦では規定打席到達者中で最低の打率.119。それでも広島との開幕戦に「2番・二塁」で先発出場し、開幕3戦目にはサヨナラ安打を放った。結局この年51試合で終わり、日本を去っている。引退後はメキシカンリーグ、レオネス・デ・ユカタンの打撃コーチを務めた。
佐伯貴弘【19年目の最終年に着けた7】
1970年4月18日生/1992年ドラフト2位
左投左打/外野手・一塁手/プロ通算19年
背番号7の期間:1年(2011)
通算成績
| 試合 | 安打 | 打率 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 |
|---|---|---|---|---|---|
| 1895 | 1597 | .277 | 156 | 795 | 42 |
香川・尽誠学園高から大阪商業大へ進み、1992年ドラフト2位で横浜へ。1998年には「マシンガン打線」の6番を打ち、38年ぶりの日本一に貢献した。優勝が決まった10月8日の阪神戦では、8回二死一塁で四球を選んで出塁し、進藤達哉の適時打で決勝のホームを踏んでいる。2004年にはリーグ3位の打率.322。19年で1597安打・156本塁打を積み上げた。
だが、タイトルもベストナインもゴールデングラブ賞も、一度も獲っていない。それでも1995年にはオールスターにファン投票で選ばれている。成績が伴わないと辞退を考えていたところ、当時巨人にいた落合博満に「お前を純粋に見たいと思って入れた人もいる。出ろ」と言われて出場を決めた——横田真之を一軍に押し上げたのも落合だった。2011年に中日へ移り、19年のキャリアの最後の1年だけ、背番号7を着けた。
山﨑武司【本塁打王2回/両リーグでベストナイン】
1968年11月7日生/1986年ドラフト2位
右投右打/内野手・外野手・捕手/プロ通算25年
背番号7の期間:2年(2012〜2013)
通算成績
| 試合 | 安打 | 打率 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 |
|---|---|---|---|---|---|
| 2249 | 1834 | .257 | 403 | 1205 | 14 |
主なタイトル・表彰:本塁打王2回(1996・2007年)/打点王1回(2007年)/ベストナイン3回(1996・2007・2009年)
※以下は主なタイトルに含めない
・最多勝利打点1998年(1988年に公式タイトルとして廃止され、当時はセ・リーグ独自の特別賞)
・オールスターゲームMVP2回(オールスター戦の表彰)
・オールスターゲーム優秀選手賞1回・ベストプレー賞1回(同上)
・最優秀JCB・MEP賞1回・優秀JCB・MEP賞1回(1989〜2007年に存在した記者選出の年間表彰で、公式タイトルではない)
・報知プロスポーツ大賞1回・ゴールデンスピリット賞1回・「ジョージア魂」賞1回(球界外・社会貢献等の表彰)
愛工大名電高から1986年ドラフト2位で入団。指名されたときのポジションは捕手だった。川相昌弘が投手として指名されて内野手になったように、この男もまた別の場所から打者になっている。1996年、127試合で39本塁打を放って本塁打王とベストナインを獲得。中日では2002年まで14年を過ごし、334本塁打を積み上げた。
本当の物語は、そのあとに始まる。オリックスを経て2005年、創設1年目の楽天へ。そして2007年、38歳で43本塁打・108打点を叩き出し、本塁打王と打点王の二冠。パ・リーグのベストナインにも選ばれた。2009年にも39本で3度目のベストナイン。セ・リーグの外野手部門とパ・リーグの指名打者部門、両方のリーグでベストナインに選ばれた選手は、史上わずかしかいない。
2012年、44歳で中日へ帰ってきた。そのとき渡されたのが背番号7だった。宇野勝が14年着け、根尾昂が受け継ぐことになるこの番号を、通算403本塁打の男が最後の2年間だけ背負ったのである。2013年限りで引退。通算2249試合・403本塁打・1205打点。歴代の背番号7で、最も多くの本塁打を打った選手だ。
令和の背番号7(2019〜現在)
根尾昂【二刀流の期待、7番のまま投手へ】
2000年4月19日生/2018年ドラフト1位
右投左打/内野手・外野手・投手/プロ8年目
背番号7の期間:6年(2019〜2024)
通算成績
| 〈打撃成績〉 | |||||
|---|---|---|---|---|---|
| 試合 | 安打 | 打率 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 |
| 141 | 42 | .174 | 1 | 21 | 0 |
| 〈投手成績〉 | ||||||
|---|---|---|---|---|---|---|
| 登板 | 勝利 | 敗北 | ホールド | 投球回 | 奪三振 | 防御率 |
| 34 | 0 | 1 | 1 | 55.0 | 38 | 4.09 |
大阪桐蔭高でエースと遊撃手を兼ね、2018年に春夏連覇。センバツでは2017年・2018年と2年続けて胴上げ投手になっている。同年のドラフトで中日・巨人・ヤクルト・日本ハムの4球団が1位指名で競合し、与田剛監督が交渉権を引き当てた。鳴り物入りの入団である。中日OBで「生涯一投手コーチ」を自認する権藤博は、早くからこの男の二刀流を進言していた。渡されたのが背番号7だった。
だが、この6年間ほどポジションが定まらなかった選手も珍しい。1年目は「ショートをやりたい」という本人の希望で遊撃手。2年目の2020年途中から、強肩を買われて外野手へ転向する。3年目の2021年は「8番・レフト」で開幕スタメンに名を連ねた。4年目の2022年、就任した立浪和義監督は当初「外野手一本」と明言したが、シーズンに入ると一時は遊撃に戻し、そして——2022年5月21日、マツダスタジアムで「4番・ピッチャー根尾」がコールされる。高校以来のマウンドだった。6月には投手専念が発表される。
つまり根尾は、背番号7を着けたまま投手になった。遊撃手として着け始め、外野手を経て、投手としてこの番号を着け続けたのである。歴代28人のなかで、野手と投手の両方でこの番号を背負ったのは根尾だけだ。2025年から背番号は30に変わり、いまはリリーフとして投手に落ち着いている。2026年、ついに自身のNPB初勝利を挙げた。まだ8年目である。
※成績は2025年シーズン終了時点。現役のため記録は更新中。
福永裕基【現在の背番号7】
1996年9月16日生/2022年ドラフト7位
右投右打/内野手/プロ4年目
背番号7の期間:2年目(2025〜現在)
通算成績
| 試合 | 安打 | 打率 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 |
|---|---|---|---|---|---|
| 228 | 190 | .269 | 9 | 50 | 11 |
天理高から専修大、そして日本新薬へ。二度の指名漏れを経て、社会人4年目・26歳で2022年ドラフト7位。歴代の背番号7で最も遅くプロの門をくぐった男である。それでも1年目の2023年、いきなり開幕スタメンを勝ち取った。新人が二塁で開幕スタメンに名を連ねるのは球団史上初のことで、しかも打順は「7番」だった。
2024年には111試合で打率.306。2025年は故障に苦しんで20試合にとどまったが、その年から背番号7を着けている。6年間この番号を着けた根尾昂が背番号30へ移り、空いた7番を受け取った格好だった。
※成績は2025年シーズン終了時点。現役のため記録は更新中。
背番号7・歴代28人の通算成績(フルキャリア合計)
打撃成績(28人合計)
| 項目 | 28人の合計 |
|---|---|
| 試合数 | 20,194 |
| 安打 | 14,868 |
| 打率 | .255 |
| 本塁打 | 1,801 |
| 打点 | 7,212 |
| 盗塁 | 722 |
※L.ドビー、B.ジャコビー、M.ステアーズ、M.ホール、李鍾範、李炳圭、セサルはNPBでの成績のみ(MLB・KBOでの成績は含まない)。その他の選手は各人のプロ通算(中日以外の所属球団もすべて含む合計)。現役の根尾昂・福永裕基は2025年シーズン終了時点の数値で、記録は更新中。打率は単純平均ではなく「総安打÷総打数」で算出。
投手成績(背番号7の投手陣合計)
| 項目 | 投手陣の合計 |
|---|---|
| 登板 | 495 |
| 勝利 | 136 |
| 敗北 | 160 |
| セーブ | 0 |
| 奪三振 | 775 |
| 投球回 | 2,714.1 |
| 防御率 | 3.16 |
※投手として登板した森井茂・野口正明・沖実郎・根尾昂の4人の合計。防御率は通算自責点953×9÷通算投球回2714.1回で算出。
28人で1801本塁打。そのうち宇野勝・山﨑武司・森徹の3人だけで930本を占める。一方で、通算2試合の中村武敏や、一軍で1試合も出られないまま番号を返した選手もいる。背番号7とは、そういう番号だった。
まとめ
初代の鈴木秀雄から現在の福永裕基まで、中日ドラゴンズの背番号7を背負ったのは28人。宇野勝が14年、根尾昂が6年、伊藤竜彦と新宅洋志が8年ずつ着けた一方で、1年で「7」から去った選手が10人もいる。1994年の横田真之と1996年の山田和利にいたっては、この番号を着けた年に一軍のグラウンドに一度も立っていない。遊撃手として史上初の本塁打王になった宇野、通算3021試合の谷繁元信、犠打533の世界記録を持つ川相昌弘、403本塁打の山﨑武司——数字の大きさで言えば、7番は中日でも有数の番号だ。
だが、この番号を本当に特別にしているのは、海を渡ってきた男たちかもしれない。1962年に72試合だけプレーしたラリー・ドビーは、アメリカン・リーグで初めてプレーした黒人選手だった。1993年に60試合出ただけのマット・ステアーズは、のちに代打本塁打23本のMLB記録を打ち立ててカナダ野球殿堂に入った。そして「韓国のイチロー」と呼ばれた男が、6年の間隔をあけて二人、同じ7番を着けている。
おもしろいのは、この番号を着けた3人が、母国では永久欠番になっていることだ。クリーブランドはドビーの14番を、LGツインズは李炳圭の9番を、起亜タイガースは李鍾範の7番を、それぞれ永久に誰も着けられない番号にした。球団の歴史にそこまで名を刻んだ選手が3人も、中日では揃って同じ7番を着けていたことになる。ちなみに李鍾範が永久欠番になった番号は、中日で背負ったのと同じ「7」だった。引退セレモニーの日には、起亜の選手全員が背番号7のユニフォームを着てグラウンドに立ったという。
その番号は、いま福永裕基の背中にある。二度の指名漏れを経て26歳でプロに入り、ドラフト7位から這い上がってきた男だ。90年で28人。次にこの番号を受け継ぐのは誰になるのか——歴代の顔ぶれを振り返ると、その予想はまったくつかない。



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